キングスコーヒー
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ブラジル・コーヒーの歴史
 
 (1)ブラジルと言う国

ブラジルはポルトガルの航海者「カプラル」によって1500年に発見されました。その時カプラルは「赤い染料の木」を発見し、「赤い染料の木=パウ・ブラジル(Pau-brasil)」の島としてヨーロッパに伝えました。これが国名の由来となりました。
 ブラジルの正式な国名は「ブラジル連邦共和国(Federative Republic of Brazil)」です。首都はブラジリア言葉はポルトガル語、人口は1億7600万人です。
 南米大陸の東部に位置し、面積は851万平方キロメートルで南米大陸の約45%を占め、日本の22.5倍です。北部はアマゾン流域の低地と熱帯雨林地帯、中南部がブラジル高原(300−1000m)で国土の約半分を占めている。国土の十分の九は熱帯だが、ブラジル高原はすごし易く、南西部でコーヒー・綿花が生産されている。
 ちなみにコーヒーの生産量は239万トン(2002年)、世界全体で756万トン。

参考文献:コーヒーブレイクJAN.2005 vol.55(全日本コーヒー協会)
       標準百科事典(保育社)

ブラジル・ミナス州にあるセラードの珈琲畑

(2)ブラジルコーヒー歴史年表

1500年、ポルトガルの航海者「カプラル」によって発見される。
1532年、ポルトガルの植民地となる。
1720年、中南米にコーヒーが最初に導入される。
 仏領マルチニーク島の駐屯歩兵隊海軍将校「ガブリエル・マチュード・クリュー」に よってカリブ海の仏領マルチニーク島に移植される。
1727年、ブラジルへはじめてコーヒーが伝来。
 パラ・マラニョン県の警備隊長代理「フランシス・デ・メロ・パリエタ大佐」によって、  仏 領ギアナからブラジルパラ州へ移植される。
1732年、最初のコーヒー輸出。パラ県からリスボンに750俵を輸出。
1761年、リオデジャネイロにコーヒーが移植され、栽培がはじまる。
1780年、サンパウロにコーヒーが移植され、栽培がはじまる。
1850年頃、サンパウロでコーヒーの本格的栽培がはじまる。
1859年頃、レ・ユニオン島からブルボン種が持ち込まれる。
1875年、ブルボン種の栽培がはじまる。
1889年、革命によって連邦共和国となる。
1908年(明治41年)、日本からの移民始まる。
1918年、大霜害
1920年、パラナ州で本格的栽培がはじまる。
 同年、リオデジャネイロに珈琲取引を行うコーヒー商業センター(セントロ・デ・コメルシオ・ド・  カフェ)設立。
1922年、サントスに公認珈琲取引所(ボルサ・オフィシャル・デ・カフェ)設立。
1924年、パウリスタ恒久コーヒー保護院設立。
1925年、同院の名称をサンパウロ州コーヒー院に変更。
1927/1928年、第一回目の生産量のピーク(169万トン)。
1929年、世界大恐慌。価格大暴落。
1929/1930年、第二回目の生産量のピーク(194万トン)。
1930年、黄色ブルボン種の発見。
1931年、国家コーヒー委員会設立。
1931/1932年、第三回目の生産量のピーク(174万トン)。
1933年、国家コーヒー局(DNC)設立。
1933/1934年、第四回目の生産量のピーク(199万トン)。
1934年、コーヒー技術庁設立。
1943年、ムンドノーボ種の発見。
1950年頃、ムンドノーボ種の栽培始まる。
1975年、大霜害

参考文献:オールアバウトコーヒー(W.H.ユーカーズ著、UCC監訳)、
       コーヒーの事典(コーヒー文化学会編)
 

1.はじめに
2.サンパウロ到着(2005.10.6)
3パトロシーニョの街からシャパドンのボタニカ農園へ(2005.10.7〜8)
4.アラシャからセラードの農園へ(2005.10.9〜10)
5.農園そしてExpocaccer(2005.10.11)
6.旧サントス珈琲取引所からサンパウロそして帰国(2005.10.12〜13)
5.農園そしてExpocaccerへ
 10月11日、朝に散歩ホテルの付近を散歩。この近くを道路が通っていて、この歩道からの眺めが良い。道路は広く、片側2車線で歩道と中央分離帯があり、中央分離帯には椰子の木が植えられていて、風情がある。この日の散歩ではちょっとしたハプニングが。なんと馬小屋から逃げてきた馬が中央分離帯でのんびりと草を食んでいるのです。しばらく見ていると飼い主があわてて出てきて馬の首に縄をかけようとするが、馬は悠然と歩いてすたこらにげてしまう。追いかけ追いかけて首に縄をかけて帰っていきました。のんびりとした風景でした。
 ミナスのホテルを出発して珈琲農園へ。最初の農園はアグアリンパ農園。農園主はフランシスコ・セルジオ氏。農園は全部で、5農場あり、総面積で約1000ヘクタール。生産量は4〜4.5万袋。ここでは主にコーヒー豆の精製設備を見学。今の時期は設備は稼動していないので、設備の概要しかわからなかった。
 次に訪問した農園は、ボアビスタ・ドイス農園。農園主はジョゼ・ルイス氏。この農園では実際の農薬管理の状況を見学。きちんと管理された農薬保管室やシャワーのある着替え用トイレがあり、農薬管理に気をつけている様子を理解できた。ここで昼食にフランゴ・カイピーレという鳥とニンニクの葉の煮込み料理をご馳走になったが、実に美味しかった。
 CACCER本部へ移動。EXPOCACCERを見学。案内をしてくれたGeraldo Edstaqio Miranda氏によると、運営母体は生産者組合で、そのメンバーは225人。コーヒーの精選と輸送の仕事を行っている。取り扱い量は年間60万袋で、セラードの生産量の20%を占めている。スペシャルティコーヒーを主に扱っている。原産地証明や品質保証書の発行もここで行なっている。見学した時コーヒー豆の袋をつんでいたがその高さは豆袋にして30袋(6m)位。日本のように地震のあったらたいへんだなと余計な心配をした。
 この後、アペラシオン(Apellation Cerrado Contorolle)についてのセミナー。セラードがアペラシオンを取得するまで10年を要したこととやその成立条件がセラードのエンセイ・ウエジョ・ネット氏によって語られた。 

ボアビスタ・ドイス農園ジョゼ・ルイス氏と


積みあげられたコーヒー豆袋
4.アラシャからセラードの農園へ
10月9日。午前中はアラシャのバレイロホテルにある大きいクアハウスでのんびり休息。広瀬先生やツアーの皆と温泉プールでを楽しんだ。アラシャの大平原を車で移動。失われた地平線という大平原にあるレストランで昼食。ここからはかなたに果てしなく広がる地平線と雄大な景色が見える。そこにパラグライダーが蝶の優雅に舞っていたのが印象的だった。そのあと金属鉱山や市内を見学して、パトロシーニョのミナスホテルに戻り、宿泊。

10月10日。午前中、カセール本部で、農薬メーカーのシンジェンタによるコーヒーに使う農薬の話とセラードの農業技師・ピッシン氏によるコーヒーの病害虫の話を聞く。
午後、カステリャナ農園とマカウバ・デ・シーマ農園を訪問。

カステリャナ農園はモンチ・カルメロにある大きい農園。農園主はジオゴ・トゥデラ氏。総面積800ヘクタールで、コーヒーの木は200ヘクタールに3000本とのこと。大規模なピボ・セントラルによる灌漑システムは圧巻であった。肥料は水に混ぜて、コンピューター・システムで与えている。
ウツカペの認証を取得している。

マカウバ・デ・シーマ農園はパトロシーニョにあるきれいな農園。農園主はアントニオ・ジョゼ・デ・カストロとグラウシオ・デ・カストロ親子。面積が230ヘクタールで、約9千袋の生産量。この農園の名前の由来はマカウバ(背の高い椰子)が見える農園というところから来ているとのこと。ここで、ケーキとコーヒーを馳走になったが、美味しいの一語であった。

アラシャの失われた地平線


カステリャナ農園

マカウバ・デ・シーマ農園
3.パトロシーニョの街からシャパドンのボタニカ農園へ
10月7日はウベランジェのホテルを出発してパトロシーニョへ。パトロシーニョはセラードの中核都市のひとつで、開かれて約700年、市制が敷かれて133年(1873年)の由緒ある街である。ここにの丘には救済者記念塔(キリスト像)がある。リオのものが有名であるが、ここのキリスト様もなかなか素晴らしい。
このあとすぐに農園へは行かず、なんとビンガの蒸留所へ。ビンガはサトウキビの絞り汁を発酵させ、蒸留した後、1年寝かせ、さらにオークの樽で3年貯蔵して出来上がるブラジル特産のお酒。39度。作るところを見学して、味見をさせてもらいました。蒸留したての味は、まだ粗さがあり、まろやかさはなく、アルコールとサトウキビの甘いかおりがありました。昼食後、セラード・コンテストと同時開催されている展示会へ。夜はセラード・コンテストの表彰パーティに出席。

翌日の8日の午前に、セラード・コンテストのウオッシュド(水洗品)部門の入賞ロットをカッピング。それぞれ入賞するに値するコーヒーである。全体的に甘みに富んでいて、雑味がなく、後味がよい。やはり1位は1位であった。
午後はシャパドンというところにあるボタニカ農園へ。湖がある風光明媚なところにある。パウロ・セルソ・アルメイダ氏が農場主。ここは比較的小さい農園で、収穫量は3万表である。気温は年平均で22度C、最高で30度C。コーヒーの花が咲き、青い実が出来ていた。今夜はアラシャという保養地にあるホテルに宿泊。

カッピング風景

ボタニカ農園主のパウロ・セルソ・アルメイダ氏と
2.サンパウロ到着
これはセラード・コーヒーが企画した農園視察ツアーである。私を含め14人。若い人が多い。素晴らしいことだ。2005年10月5日19時10分に成田を出発。途中、ニューヨークで2時間の休憩。2005年10月6日朝の6時40分(日本時間18時40分)にサンパウロ到着。約24時間の旅である。
 到着するとセラードから派遣された通訳のMr.Yoneda、Mr.Kawasima、Mr.Uranoの3氏が笑顔で出迎えてくれた。バスですぐにサンパウロの街の朝市を見学。朝市は市営パカインブ―・サッカー場(1940年創立 3万人収容)の横の広場でひらかれていた。朝市は常設で色とりどりの野菜や果物がうられていた。ここで食べた小さいバナナは香りよく甘みがあり、実に美味しかった。
 またサッカー場の外壁にはペレやブラジル代表の記念プレートが飾ってあり、さすがはサッカー王国のサッカー場である。プレートの前で撮った写真はサッカー好きの筆者には良い記念になった。
 この後、東洋人街(リベルダージ)へ。道路にはなんと阪神リーグ優勝おめでとうの横断幕が飾ってあった。太陽のカフェ(Cafe Sol)というカフェでブラジル・コーヒーを味わう。エスプレッソで抽出した苦味ばしったコーヒーである。サンパウロのコーヒーは濃いのだそうだ。 
 きょうはかなりの強行軍でこれからミナスのウベランジェまでフライトして、宿泊であった。

朝市風景
1.はじめに
 2005年10月5日から15日にかけて、ブラジルのセラードというコーヒー生産地とその中核都市パトロシーニョおよびサンパウロの街とコーヒーの積出港で旧コーヒー取引所があるサントスを巡ってきました。はじめに、とくに印象に残ったことをかいつまんでお話ししましょう。
 気候は春で、朝・夕は25度前後、昼間は30度を超えるくらい。また都市や農園は高原地帯にあり、湿度が20%くらいで過ごしやすい陽気でした。とにかく広々とした大地と抜けるような青空を見て気持ちが大きくなりました。農園には見渡す限りコーヒーの木が植えられていて、圧倒されました。
 食べ物は肉と豆料理が中心でご飯も必ずありました。豆はともかく肉は胃にもたれ参りました。果物と野菜は豊富で美味しく、胃が喜んでいました。コーヒーはエスプレッソでした。大体において苦味のつよい味で、肉をたべたあとの口はさっぱりするようなコーヒーでした。
 サンパウロでとくに危険な目にはあいませんでしが、ちょっと驚いたのは、スーパーでガードマンが拳銃をさげて入り口で警備していたことでした。銃社会であることを実感しました。
 サントス旧コーヒー取引所(現在コーヒー博物館になっている)はじつに立派な建物でした。、ほぼ昔の姿のままで保存され、当時のブラジルコーヒーの繁栄が伝わってきました。と同時に私の父・六蔵はここで1930年ごろ、コーヒーの勉強(鑑定士の資格をとるまでの2年間位)をしていたのだなと思いが胸にこみ上げ、感無量になりました。
 次回からは日々の印象を書いていきますのでお読みいただければとおもいます。
 
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